たまき青空病院グループについて

たまき青空病院グループ

常に最新の医療技術を提供し、
地域で最も信頼される医療機関であり続ける

たまき青空病院グループは創設者の田蒔孝正(大正2年3月16日生)が、1940年(昭和15年)に香川県引田市(いまの東かがわ市)で創業しました。その後、終戦を迎え、日本国憲法が発布された1947年(昭和22年)に、故郷の徳島県徳島市国府町に帰省して田蒔醫院を開業しました。当時はいまでは当たり前の「点滴(ブドウ糖液)」がなく、疫痢(現在の赤痢)による乳幼児の脱水による死亡が問題となっていました。孝正は点滴技術を早期から導入することで、小児を中心に地域医療に注力してきました。昭和57年の絵画には「田蒔内科小児科」として、地域の内科・小児医療に貢献してきた様子が描かれています。

田蒔孝正は昭和62年3月に全日本病院協会会長、同年7月に厚生省医療審議会議員に就任し、入退院委員会の設置などに関連して医療費の高騰に対応するべく国民医療総合対策本部に対して上申をおこない、合理的な医療のありかたについて議論してきました。また、平成元年・平成3年と3期連続で全日本病院協会会長を務め、「我が国の看護婦、PT、OT等は世界で最低のレベルで、コ・メディカル部門の養成強化を図る必要がある。老人ケアの根本的対策として寝たきり老人を阻止することが医療費抑制の基本的課題と考える」などとして高齢者医療のありかたに対して最先端で取り組んできましたが、平成4年1月7日に急逝しました。

2代目の田蒔正治が医師になったときには腎不全に対する治療が問題でした。人工透析は昭和42年に保険適応になったにもかかわらず、技術的・費用的な問題からほとんど普及していませんでした。田蒔正治は、日本腎臓学会会長 大島研三教授のもとで人工透析の治療・研究が活発に行われていた日本大学で修練を積み、昭和57年に帰省しました。当時は全国的に人工透析のための施設はほとんどありませんでした。そこで、田蒔正治は入院診療を充実させるとともに人工透析治療を開始しました。昭和59年の健康保険法の改正にともない人工透析治療は広く行われるようになり、人工透析を通じて地域医療に貢献してきました。
また、田蒔正治は早期より高齢者医療に取り組み、まだ介護の概念が浸透していなかった平成6年より介護老人保健施設 国府リハビリテーションフェニックスを開設するなど、病院と介護施設の連携による地域包括ケアに注力してきました。

現在の医療法人 明和会 たまき青空病院は、国府町で100床の入院施設と内科・外科・泌尿器科・整形外科・脳外科など複数の診療科や健診センターを備えた総合病院です。
介護・福祉は平成6年より介護老人保健施設 国府リハビリテーションフェニックスを開設し、現在はグループホームやショートステイ、デイサービス・デイケア、訪問看護・訪問介護、特別養護老人ホームなど複数の施設を運営しております。
これからも地域で最も信頼される医療機関であり続けられるように、一層の努力を重ねて参ります。


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