学生の時に付き合っていた女性(現在の妻)の祖母が大腸癌で永眠されました。それで大腸癌を治療できる消化器外科医になると決めて、徳島大学第二外科に入局しました。当時、消化器内科は主に第二内科で治療されていましたが、第二内科からの院内紹介が第二外科にされることが多く、消化管疾患の手術の多くが第二外科でされていました。第二外科は門田康正教授でしたが、この人の下なら医師として成長できると直感しました。大学第二外科で半年過ごした後、徳島赤十字(当時小松島赤十字病院)へ、その後阿南医師会中央病院へ転勤となりました。

為せば成る

参考書をあさって、こんな手術はまだ自分にはできないと思っていてもやってみればできるんです。いつまでもやらないでいたらできないままです。卒後3年目から阿南医師会中央病院で働きました。当時、外科医は5人でしたが、徳島赤十字病院に追いつくように病院をよくしていこうと活気がありました。トップが高谷信行先生でいろんな手術をさせていただきました。5年目で大学に帰るまでに、虫垂炎、下肢静脈瘤抜去、気管切開、肝転移のTAEなどは助手の医師なしで看護師さんとするという経験もさせていただきました。初めての硬膜外麻酔も指導してくれる予定だった麻酔科の先生の都合がつかず、勉強していた知識のみで対処しました。手術室で看護師さんたちに囲まれ見守られながら、うまくいくようにと心の中で神頼みしながら、カテーテルチューブを硬膜外に留置することができました。それからは硬膜外麻酔も連勝できました。阿南医師会中央病院は週1回乳癌手術に森本忠興先生が、甲状腺は大下和司先生や三木仁司先生が大学からきて、手術があるときは執刀させていただき、手術の指導をしていただきました。その後、時期ははっきりとは覚えていませんが、大学の手術症例を増やすということで、大学で手術されることが多くなり、自分が行ったタイミングが良かったと思いました。

徳島大学病院へ帰ってからは、臨床をした後、研究グループは迷いましたが、結局当時最大グループだった肺移植グループに入り、ラットを使って肺移植の実験をしていました。

徳島赤十字病院にも移植外科を作るので2年間名古屋で勉強してくるように言われ、1995年4月から名古屋第二赤十字病院移植外科の打田和治先生の元へ腎移植の勉強に行きました。移植外科は6人体制で打田、冨永、幅先生は固定、その下の4番目のスタッフに加えていただきました。当時、血液型不適合生体腎移植は行っておらず、腎移植件数は年間40程度しかありませんでした(それでも国内2番)が、執刀をたくさんさせていただきました。また、腎不全患者の手術はできる限り移植外科でするとの打田先生の方針だったため、胃癌、大腸癌、乳癌など執刀させてもらいました。移植患者の気胸も、移植外科で胸腔鏡下肺部分切除を行いました。

Never give up

名古屋では、大腸癌再発で、癌組織が周囲に浸潤し、周囲臓器に障害を与えている透析患者さんの手術をする機会を得ましたが、浸潤範囲は広く、術中に十二指腸にも浸潤していることもわかり、十二指腸の一部を合併切除(小範囲の楔状切除)した症例がありました。術後真っ赤な下血が認められるようになりました。真っ赤な血でしたから下部消化管からのものを当初は考えていましたが、最終的に出血シンチなどで十二指腸縫合部からの出血と判断しました。幸い縫合部のリークは認めず、放射線科にインターベンションの相談をしたところ、バゾプレッシンなら内臓動脈を収縮させるので、血管を詰めてしまうのとは違い、一時的に血管収縮させるだけなので十二指腸は壊死する危険性がないのでよい。さらにインターベンションでバゾプレッシンを使って止血させなくても、静注でも変わらないという結果が報告されているということ教えてもらい、1日4回短時間の静注(間歇)を行ったところ翌日から出血が認められなくなり退院できました。毎日2Lの輸血を5日間行っていましたので、いつまで輸血をするのかを聞く病棟スタッフもいましたが、諦めたら終わりなので輸血が要らなくなるまでするということを確認し、頑張ってもらいました。看護師さんがオムツを変えてナースステーションへ帰ってきて5分後にまた下血でオムツが汚れたとナースコールが鳴るというようなこともあり、看護師さんも疲れていたと思いますが、当時の5病棟4階の看護師さん全員が独身で若く、みんな頑張ってくれました。

当初名古屋には2年間ということでした(渡辺先生は1年でもよいといってくれました)が、冨永先生と2人で南京医科大学に5泊6日で3人の副甲状腺手術に行ったことなど毎日が楽しく、結局3年間名古屋にいました。その間に徳島赤十字病院の院長が代わり移植外科をつくる構想は消滅してしまい、医局からは町立三野病院への転勤を命じられました。

町立三野病院(現在は市立三野病院)は完全年俸制の病院で、外科医は1人しかおらず、木曜日は第二外科からバイトが来て代診してくれるので自身は休みという病院でした。当直は月平均6回、多い時は8回の月もありました。夜間は胸部や四肢のレントゲン、CTの撮影の仕方を技師さんから教えてもらっていたとおりの条件で行っていました。木曜日以外の虫垂炎や簡単な手術は看護師さんもしくは内科の先生と行いました。胃癌や大腸癌や肺癌の予定手術は硬膜外麻酔や挿管など麻酔導入するまでは自分で行い、麻酔管理は内科医にしてもらい。バイトの先生と手術しました。腹腔鏡のセットや気腹装置を機械屋さんに貸してもらい三野病院では初めてとなる腹腔鏡下胆嚢摘出術も行いました。徳島赤十字病院で麻酔をたくさんかけさせてもらい、阿南医師会中央病院で医師1人の手術させてもらった経験が外科医一人の病院では非常に役に立ちました。余談ですが、名古屋第二日赤時代には全身麻酔のバイトに行ったことがあります。三野病院は自宅から62.5kmほど離れており、1時間半かけて車で通勤しました。とても広い官舎が与えられていましたが、バルサンで50匹くらいのムカデが死んで、通勤することとしました。渋滞するので夜明け前に家を出ていましたが、通勤時間が無駄かというとその間はラジオなどでいろんな情報や雑学を得ていましたので、そういう時間もあってよかったと思います。状態が悪い患者さんがいたときは日曜日に2往復したことがあり、計8時間運転したことがあります。治療方針や手術、術後管理を全て自分で決めることができましたから、もし徳島市にあるならずっと常勤してもよいと思われたようなやりがいのある病院でした。

名古屋へ行くことにご尽力いただいた渡辺恒明先生が徳島赤十字を定年退職される際に、渡辺先生の代わりということで医局に許可を得て徳島赤十字病院へ赴任することができました。赤十字病院では消化器、透析、腎移植などを専門としていました。なお、腎移植は多い年で年5例しかありませんでした。甲状腺や乳腺を担当していた先生の移動で、自分が乳腺、甲状腺も担当することになりました。忙しくて消化器を泣く泣く手放しても、最終的には外来が夜9時を過ぎることもあるようになり、その他いろんなストレスで期外収縮も出るようになり、当院が新しく移転新築オープンするとのことで2011年8月末に徳島赤十字を退職し、たまき青空病院へ就職しました。期外収縮はそれ以後完全に消失しました。

たまき青空病院では乳癌手術や甲状腺手術や内シャント手術などをしていましたが、名古屋第二赤十字病院内分泌外科部長の冨永芳博先生(副甲状腺全摘手術件数は世界1)に2年間近く勧誘いただき、2017年1月に名古屋第二赤十字病院へ転勤しました。最初は徳島を離れたくなかったのですが、住めば都で楽しく過ごせ冨永先生に大変感謝しています。名古屋に行く際の条件として毎週土曜日は当院へ残してきた患者さんを診られるように金曜夜に徳島へ帰って、日曜日に名古屋へ戻るということも条件につけてダメなら断ろうと思っていましたが、快諾していただきました。コロナ禍で2か月は帰れない時がありましたが、週1回、400回近く徳島―名古屋間を往復しました。名古屋では冨永先生の退職後は甲状腺・副甲状腺の手術を決め、チーム内の術者を割り当て、自分が執刀しない時は第1助手に加わり、内分泌外科の全手術に入るようにしていました。手術や外来のない金曜日は乳癌手術の助手に入るということをしていましたが、適度のストレスだったので健康的にやれました。ただ、8年3カ月の間で調子いい時は2.0あった視力が、おそらく電子カルや自分のパソコンなどで悪化しました。現在は時々ブルーライトカット眼鏡をつけますが、裸眼でやっていることが多いです。老眼になっても気合でピントを合わせるようにしています。

Bestをつくせ

徳島赤十字病院の時から手術の時は拡大鏡(2.5倍)を使用しています。大学で実験していた時は10-0プロリンという細い糸も裸眼でみえていたほど眼は良かったのですが、2.5倍にすると別世界です。視力が低下した現在でも手術時は非常に良く見えます。細かいところがみえるので血管吻合するときもより確実にできる、細い血管も見えるなど自分にも納得の行く手術ができたなど良い思いができますが、何よりも患者さんにより良い医療を提供できると考えます。‘患者ファースト’で患者によいと思ったことは可能な限りやってあげるということを心がけています。話は変わりますが、患者さんがセカンドオピニオンを希望されれば希望するところに書くことにしています。同時に東京や京都、大阪など10病院へセカンドオピニオンを作成したこともありましたが、その人も結局自分のところで治療されました。

2025年3月日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院を退職するにあたり、送別会を開いていただきましたが、最後まで残ってくれた人たちと写真を撮りました。胸に私のモットーを書いたTシャツをみんなに着てもらっています。向かって私の左が、大恩人の冨永先生です。左後列3人目の髭の大男が187cmあり、大学の実験を捨てて名古屋に行こうと思ったきっかけとなった第二日赤で移植外科を始めた打田先生でたいへんお世話になりました。